2005年04月11日
教育と勤労
何だか大げさなタイトルですが、時折思うのは、真剣に考えなきゃなぁということです。
先週の読売新聞のコラムに、NEETが増えている理由に教育の風潮が影響しているという指摘がありました。いわゆる「個性尊重」という御旗で「あなたが本当にやりたい仕事を探しましょう」という風潮が、「やりたい仕事がないから働かない」という理屈に免罪符を与えてしまったという指摘です。
それが的を射ているかどうかは即断できないけれど、一面を表しているのは事実だと思います。何の本だったか忘れちゃいましたが、「あくせく働かなくても暮らしていける世界が目標だったはずで、働かなくても生きていけるんだから、これが目指してた世界じゃないの?」みたいな指摘があって、ちょっとショックを受けたことを思い出しました。
先の新聞のコラムは、「生きていく力を教育していくべきだ」という結びだったと思います。私も若かりし頃は、趣味を仕事にするか、趣味は趣味として取っておくかと悩んだこともあります。自分のこども達にも、この子がやりたいことは何だろう、向いてることは何だろうなんて考えることもあります。同じように、会社の同僚に仕事をお願いするときにも考えます。
自分が今好きな仕事をしているかと言えば、100%とは言い切れない。でも、責任感とか達成感とか、仲間と作り上げる楽しさとかは感じてます。正確に言うと、再び感じることが出来るようになった、というのが正しいのですが。
一時期、価値観がひっくり返って、辛くて、仕事に行きたくなくて、酷い精神状態でありました。1年くらい休みたかったのが本音でしたけど、毎月のお給料をもらうために義務感だけで通ってましたね。荒療治ではあったかもしれませんが、そんな中で、仕事を担当し小さなステップを踏むことが良いのだと悟りました。
小さなハードルを1つ1つ越えていくと、自信が戻ってくるんですね。忍耐強く待ってくれる上司や、理解してくれる同僚がいてくれることが必要なのですが、「まずは、やってみなさい。」という心の広い態度が重要だなぁと思います。
個性の話をすると、言い過ぎかも知れませんが、芸術や音楽の世界では個性を認めません。徹底的に「型」にはめることを指導するそうです。型というのは基礎ですから、これが身に付いていないと、その先へは進めない。つまり、学校教育でも、個性などということを振りかざす前に、「基礎としての型」を教えるべきだと思うんです。
家庭や学校、会社で学ぶ「型」は、「他人との共有意識を持つ」ということに他ならないと思います。平たく言えば「友達の気持ちが分かるか?」「両親の気持ちがわかるか?」ということです。「言葉」はそういう「共通理解」を広めるための手段で、「共通理解」こそが文化である、という極論もありえます。
何だか硬い話になっちゃいましたが、ふと明日の朝も眠たい思いをしながら会社に行くのは何故なんですかねぇ、という答えさえ見つけられない私では、説得力のない文章になってしまいましたね。
投稿者 ゆきの父 : 2005年04月11日 01:32
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