●外泊、退院

●個室の頃

移植後の経過は非血縁者ドナーからの骨髄移植としては比較的順調な回復でした。GVHD(移植片対宿主病)による下痢や発疹、痒みは続いていました。特に痒みは強いようで眠れない日も多くありました。
この写真は、移植後50日頃のものです。お風呂上りに風船で遊んでいるところを婦長さんが撮って下さいました。婦長さんが「とてもいい表情をしているので」と仰ってくださったのを覚えています。病室で撮った数少ない写真の一つです。
移植の前処置で放射線と大量抗がん剤を使ったため髪の毛が抜けてしまいました。この写真では残っているように見えますが、大分少なくなっていました。他に入院している子供たちもそうでしたが、抗がん剤を使うと髪の毛が抜けてしまうのがかわいそうでした。

●外泊

移植後60日あまりで外泊許可が出ました。外泊が出来て友紀野は本当に嬉しそうでした。病院から帰るとき、何度も「おうちー」と言ったのを思い出します。
外泊といっても、免疫抑制剤(プログラフとプレドニン)や抗生剤などたくさんの薬は続いていましたし、IVHのメンテナンスも必要でしたので気を使うことは多かったですが、子供たち3人がそろって遊んでいる姿をみられるのは本当に嬉しかったです。
外泊が始まってしばらくして、主治医のT先生から連絡を頂きました。順調に行けばもうすぐ退院できそうだとのお話でした。その時、頂いたのが、「退院のお話」というメールでした。このメールでは10/30には退院とのお話でしたが、結局、GVHDによる下痢が続いていたため、様子見ということで退院は延期になり、外泊扱いとなりました。
この写真は、外泊が始まって1ヶ月半くらい経ったときのものです。子供たち3人がお布団の上で楽しそうにしています。3人揃っていると、まるで修学旅行のような気分になったものです。丁度、友紀野が夜の免疫抑制剤を飲む時に撮った写真です。プレドニンの影響でお顔がプクプクに丸くなっているのが分かります。

●この頃の様子

友紀野は、本来はとても活動的で、お茶目ないたずらっこです。なんでも自分でやりたがり、世話好きのお姉ちゃんでした。
ところがこの頃は、友紀野は全く自分で歩こうとはしませんでした。歩くことだけではなく、遊ぶことにさえも積極的ではありませんでした。プレドニンを多く服用すると、怠け者のようになってしまうという、精神面での副作用もあるようです。それに急激に太って、体が重いというのもあったと思います。移植前は12kg弱だったのが、このころは15kg。体重の1/4ものお肉が一気についてしまったのですから、ずっとベッドの上で暮らしていて筋力がおとろえていた友紀野には、きっと動くことのも大変だったのだろうと思います。
ただ、兄妹たちとはよく騒いでいました。ビデオを見たり、うたを歌ったり、布団に「ふかふかだー」と飛び込んだり、アンパンマンやトムとジェリーの、お気に入りのシーンの台詞をそっくりまねしたり。特にこの台詞のまねはよくやっていました。友紀野が「な・な・なんだぁー」などと、一つの台詞をお兄ちゃんに振ります。するとお兄ちゃんは、すかさずその次の台詞をだーっとしゃべりまくります。きちんと演技もまねて(なかなかの役者)。これを始めるともう止まらなくて、うるさいやら楽しいやら、もう大変でした。

●お誕生日

2000年12月6日、友紀野は3歳のお誕生日を迎えました。この日も外泊中でお家でお誕生日を迎えられたことに感謝しました。
友紀野は、お誕生日ケーキを見て、「けーきだー」と、とっても嬉しそうにしていました。でも、アンパンマンのチョコレートを見ると、それがとても気に入ったようで、チョコレートばかり食べていました。ケーキは、お兄ちゃんと妹がパクパク食べました。
看護婦さんからピングーとピンガのマスコットとバースデーカードを頂きました。
お誕生日に、おばあちゃんにセサミストリートのエルモのお人形を買ってもらいました。ポーズを変えてやると、それに合わせていろんなおしゃべりをするものです。友紀野はこれがとっても気に入りました。すごくいいお顔をして、嬉しそうに抱っこしていました。お父さんが仕事から帰ってくると、真っ先にお迎えにきて、にこにこしてエルモを見せてくれました。とても柔らかな豊かな表情で、今でも目に焼きついています。
エルモは今でも、食卓の友紀野の椅子に座っています。

●退院

2000年12月11日、ようやく退院となりました!
当初、IVHを抜去する予定でしたので12日に退院予定だったのですが、おなかが多少ゆるいということで、念のためIVHは残したまま、退院することになり1日早まりました。クリスマスやお正月に間に合っての退院となり、主治医の先生や看護婦さん共々喜びました。
若年型骨髄単球性白血病と診断され、骨髄移植でなければ助からないと宣告を受けたときは目の前が真っ暗になりましたが、ドナーに恵まれたことは幸運でした。ドナーになって頂いた方は本当に命の恩人だと感謝いたしました。移植後半年で再発し友紀野は天使になってしまいましたが、半年という貴重な時間を頂けたと思っています。
退院の時はカメラを持って行って、先生や看護婦さんたちとたくさん写真を撮ろう!・・・と決めていたのに、突然1日繰り上がったので、なんの用意もしていなくて、そのことがちょっと残念でした。
なんだかバタバタと帰り支度をして、挨拶も充分にできないまま、病院の駐車場に行くと、まあるい暖かい色の月が東の空に出ていました。初めて子ども医療センターに来て、入院してくださいと言われた日も、お月様が丸かった。突然骨髄移植が必要かもしれないと言われ、何がなんだかわからぬまま、泣き叫ぶ友紀野を病院に置いて家族4人で家に帰ったとき、冬の空高く、冷たいまるい月が、白く輝いていたのを覚えています。あの時は骨髄移植なんて言われても、全然ピンとこなかったよなあ・・・なんて、月を見ながらいろんなことを思い出していました。

●退院後

退院後は、GVHDの様子をみながらプレドニンの量を徐々に減らしていく治療を続けましたが、減らすとGVHDによる下痢や発疹、痒みが強くなるので、途中でまた増量することになったりしました。病院へは週1回通って、血液検査をして薬をもらうというパターンになりました。
年末に家族5人で撮った写真です。家族そろって撮った写真は数少なく貴重なものになりました。
友紀野はIVHの先を入れておく袋を首からぶら下げています。早くこのIVHが取れれば、お風呂も楽になるのにと思いました。しかし、再発後、このIVHを残しておいたおかげですぐに治療をはじめることが出来たのも事実で、IVHはまさに命綱でした。

●おばあちゃん帰宅

長い間手伝いに来てくれていた高知のおばあちゃんが、18日に帰ることになりました。その日は飛行機の時間の都合で、夏ちゃんを保育園に送るために家を出るとき、みんなでおばあちゃんにありがとう・ばいばいの挨拶をしました。
夏ちゃんを送って帰ってくると、友紀野は「おばあちゃん、ただいまー」と、にこにこしてドアに手を掛けました。私は少し胸がきゅんとしました。「ゆきちゃん、おばあちゃんね、もう高知のお家に帰っちゃったんだよ。さっきバイバイしたでしょ。」というと、友紀野の表情が急に曇りました。「さみしいね。」と私が言うと、「うん、さみしーい。」・・・本当に本当に、淋しそうな友紀野でした。

●この頃のお母さん

この頃、友紀野には昼夜逆転傾向が見られました。移植後の患者さんにはよく見られることなのだそうです。夜、何度も起こされました。「おちゃー」とか「ビデオー」とか、「れすたみんー(痒み止めの薬の名前。抗ヒスタミン剤)」とか。かゆみや、おなかの調子が悪かったせいもあります。ですから、私はまとまった睡眠がほとんど取れませんでした。
昼間も薬やIVHの世話、週1回の病院、幼稚園・保育園の送り迎えと、子供たちの世話で精一杯でした。
そんなしっちゃかめっちゃかな生活の中で、ずうっと考えていたのは「友紀野のこれからのこと」です。
直射日光にあたれない、痒みやおなかの調子が悪いのも続く、ムーンフェイス、それに晩期障害のこと・・・血液型もAB型からA型に変わった。・・・これは神様に逆らっているんだなあと、ふと思うこともありました。でも、絶対に友紀野の元気な笑顔を取り戻したい、そのためなら、神様にだって逆らってやる、そう思いました。でも、もしかしたら普通に学校にも行けないかもしれない、髪も生えてこないかもしれない、背も伸びないかも・・・そんな中で友紀野の笑顔を守るためには、一体どうすればいいのだろう、私は何をすればいいのだろう。そんなことをずうっと考えていました。漠然とした不安はありましたが、それでも懸命に前を向いていました。

●風邪(再発の予兆)

年末に近い頃、吐き下しの症状の風邪をひいてしまいました。夏ちゃんもかかっていました。
この風邪をひくと、全く食べられなくなりますが、長くても1週間位で治るものです。こどもはよくひく風邪なので、私も特に気にしてはいませんでした。ですが、お正月、七草を過ぎても、食べられない日が続きました。なかなか治らないな、まだ抵抗力が戻っていないからかな、などと考えていました。
しかし、後から考えると、これが再発の予兆だったのです。ですがこのときは、そんなこと全く考えもしませんでした。

友紀野のタンポポ畑
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