診断がつくまで

誕生

友紀野は1997年12月6日に横浜で産まれました。当時、私は仕事の関係で郡山に長期出張しており、週末は横浜の自宅へ帰る生活でした。その帰ってきた土曜日に産まれました。長男の蒼ちゃんの時と同じように帝王切開で産まれました。前日に定期検診に行っており、まだと言われていたそうですが、急に陣痛がきて産院に行ったのを覚えています。産まれるときから友紀野らしい自己主張だったと思います。

兆候

6ヶ月頃からお顔に皮疹が出来ていました。特に目の周りに多く出来ていたので、皮膚科に診てもらったところ「黄色肉芽腫でしょう。特に異常ではないので、自然に消えるでしょう」と言われていました。後から分かったことですが、この顔面の皮疹も病気の特徴の一つだそうで、今から振り返れば、この頃から病気は始まっていたのかもしれません。

感染症?

2歳の誕生日前くらい、1999年11月頃に、太ももを中心に内出血のような小さな紫斑がたくさん現れました。産院は小児科もあったのでそこで診てもらうと、「うちではすぐに結果がでないから至急設備のある大きな病院へ行って下さい。」とのことで、西横浜国際病院を紹介されました。そこへ行ったところ、すぐ血液検査となりました。「白血球が多いですが、感染症などでも白血球が増えることはあるので、心配ないでしょう。」と言われて経過観察することになりました。しばらく様子を見ていましたが、紫斑も徐々に消えましたので、「やっぱり何かの感染症だったのかな」と安心していたのを覚えています。

こども医療センターへ

その翌年、2000年1月に再び紫斑が出て、さらに血便が出ました。家内がすぐに同じ小児科に診てもらいに連れて行き、今度はもう少し近い病院を紹介してくださいとお願いしたところ、神奈川県立こども医療センターを紹介されたのです。今、思えばこの時、前回と違う病院の紹介をお願いしてよかったと思います。その日は1月21日金曜日でした。お母さんから会社に電話があり「友紀ちゃんが大変なの、すぐにこども医療センターへ行ってって言われたから帰ってきて」と言われ、慌てて午後半日休暇を取って帰りました。
センターへは、幼稚園から帰ってきた蒼ちゃんと次女の夏ちゃん(当時七ヶ月)もつれて皆で車で行きました。外来で診察を受けて、待っていたところ、先生から家族全員で診察室に来て下さい、と呼ばれていくと、「白血球が多いし肝臓が腫れています。今まで肝臓が腫れていると言われたことないですか?血液科の先生に診てもらったほうがいいのですぐ入院してください」と言われました。そんなに大変なことだとは思っていなかったので入院と言われて驚きました。

検査入院

まさか入院するとは考えていなかったので何の準備もないまま病棟へ行きました。1階の西側病棟、通称1西病棟でした。そして、看護婦さんからいろいろ説明を聞き、入院にあたって、こどもの生活習慣や好きなことや嫌いなこと、食べ物の好みなどきめ細かく聞かれました。しばらくすると、「主治医が決まりましたので紹介します」といわれてお会いしたのが、血液科のT先生でした。
友紀野は初めて両親から離れるせいもあってか泣き叫んでいました。そして、初めてのマルク(腰骨から骨髄を採取する検査)。大人でも痛みに耐えられないと聞いていたのでかわいそうでした。
こども医療センターは完全看護体制のため親の付き添いは必要ありませんでしたが、心配で後ろ髪引かれる思いでその夜、友紀野をあずけました。翌日の1月22日の土曜日、面会に行くと友紀野は飛びついて抱っこをせがみました。心細かったんでしょう。再び採血検査をし、午後には外泊許可が出ましたので土日はうちへ連れて帰りました。

診断

月曜日に再び病院へ行き、検査結果を先生から聞きました。その結果では、「若年型骨髄単球性白血病(JMML:Juvenile MyeloMonocytic Leukemia)」の疑いが強いとのことでした。 白血球数が増加し、血小板が減っているため、出血が止まりにくく、増加した白血球が肝臓、脾臓に溜り腫れているとの説明。血小板が減っているために紫斑や血便が出たとのことでした。
骨髄の遺伝子検査、DNA検査、培養検査などの結果が3週間くらいかかるので、最終的な診断はそれを待たなければ分からないと言われましたが、先生は、状況証拠からして現時点では一番、可能性が高いと考えているとのことでした。
先生が現時点で分かっている範囲の説明をしてくれましたが、いわゆる急性白血病ではないので、当面、急ぐ必要はないらしく、実際、本人は元気でしたので(これもこの病気の特徴らしい)、定期検査、外泊の繰返しになるとの説明でした。
JMMLは、骨髄異形成症候群(MDS)に属するものとのことで、化学療法がないそうで、根治のためには、骨髄移植しか方法がないと言われました。そのため、私とお母さんと蒼ちゃんを採血してドナー適合検査をしてもらうことになりました。骨髄移植のためには白血球の型(HLA)を一致させる必要があるためです。兄妹でHLA適合の確率が高く、ベストだそうです。夏ちゃんは10ヶ月を過ぎないと検査が出来ないと言われました。

治療方針

急性ではないので、今日明日どうこうという話しではないのと、この病気の場合、数パーセントの割合で自然治癒する症例もあるとのことで、白血球数を減らす薬(ロイケリン)を使って、肝臓・脾臓が破裂したりしないようにするコントロールを続けるとの説明でした。白血球を減らすため、感染症に掛かりやすくなるので、抗生剤、抗黴剤、粘膜保護剤を併用していくことになるとのことでした。
経過を見ながら、春頃に骨髄移植が出来るような準備を進めていくと先生は言っていました。体重差や年齢からして蒼ちゃんのHLAが適合すると一番よいのですがと先生も期待していました。適合しない場合は、夏ちゃんの検査をするとのこと。それでも駄目なときは、臍帯血バンク、その次は骨髄バンクの順に適合者を探していくことになるとの説明でした。
病院から”小児骨髄異形成症候群(MDS)治療プロトコールMDS99;日本小児MDS治療研究会”という資料を頂きました。そこには、近年の生存率も詳しく出ていました。こちらに関連部分を引用紹介します

家族

実は、友紀野が発病する前から新居の新築が進んでいたのです。丁度3月頃に完成し引っ越して春からは家族5人で新居で楽しく暮らそうと考えていたところでしたのでショックも大きかったです。この病気は治療が長期戦になるため、新居に引っ越したら、お母さんのお義母さん(高知のおばあちゃん)にしばらく同居してもらおうかと相談しました。
病院は完全看護のため付き添いはいらないのですが面会時間は毎日14:00〜19:00でしたので、面会に行きました。病院の規則で病棟には他の子供は入れないため、当時、蒼ちゃんは5歳、夏ちゃんは7ヶ月でしたので、この2人を預けておくところを探すのが大変でした。結局、高知のおばあちゃんにきてもらい面倒を見てもらうことになったのですが、おばあちゃんも大変なので、蒼ちゃんは幼稚園の延長保育、夏ちゃんは保育園に入れてもらえるよう区役所に相談に行きました。病院では他の兄妹のケアまではしてもらえないので大変です。
HLA適合検査のための採血の時、蒼ちゃんは泣きませんでした。その夜、風呂に入ったときに、彼が「どうして血を採ったの?ゆきちゃんに分けてあげるの?」と聞くので、「そうなるかもしれないから、ゆきちゃんとそうちゃんの血が合ってるか調べてもらうのに採ったんだよ」と説明すると、彼曰く「同じおなかから産まれたんだから、同じに決まってるよ!」と泣きたくなるようなことを言ってくれました。最終的な判断はされていませんが、子供のカンというか、大人が失ってしまった能力というか、それを信じて結果を待つことにしました。

友紀野のタンポポ畑
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