●再発〜旅立ち

●2000年末

退院した頃の友紀野は機嫌もよく調子良かったのですが、年末に吐き下しの風邪をひいてしまい食欲が落ちました。それでも当時は、まだ抵抗力がないのかなというくらいにしか思っていませんでした。
食欲は落ちていましたが年末の大掃除のとき、友紀野はとても嬉しそうにお手伝いをしてくれました。お兄ちゃんと一緒に雑巾を持ってニコニコしながら窓拭きをしていた姿を思い出します。

●この頃の様子

食欲のほうは時々少し食べてすぐ「いらない」という感じでした。また頻繁に「おなかがいたい」と言っていました。軟便が続いていてGVHDの可能性もあるので免疫抑制剤(プレドニンとプログラフ)の増量を検討することになりました。せっかく減量してきたのでもったいない気もしましたが、先生によれば「生命現象は単純な直線で割り切れるものではありませんので、多少波打ちながら少しずつ慣れさせていきましょう。あわてる必要はないですよ」とのことでした。
風邪のせいか咳がよく出ていました。気管の奥のほうから出るような咳で息苦しそうな感じでした。先生に連絡をとり次回の外来の時にレントゲンを撮ることになりました。ウイルス感染などが引き金になって気道過敏性が高くなって慢性気管支炎の傾向が出てきたようです。慢性GVHDは一種の膠原病であるとのことで、気管に影響がでることがあるとのことでした。サイトメガロウィルス肺炎の可能性はアンチゲネミアの検査結果からないでしょうとの見解で安心しました。
心配だったのは、夜、熟睡できないようで明け方まで起きていることもあり、逆に昼はすぐに「ねむたい」と言ってはお布団にゴロンとしてしまうので、寝るかと思って添い寝していても睡眠をとるわけでもなく不機嫌なことでした。機嫌がものすごく悪いことがあったり、時々、笑ったりもするのものの浮き沈みが激しい感じでした。また、お散歩には行きたがるのだけれど連れ出しても歩こうとはしない。ずーっと抱っこかベビーカーに乗ったまま。歩かせようとすると怒り出してしまうほどでした。先生によれば、不機嫌・無気力・昼夜逆転というのは骨髄移植を受けた患者さんにこうした訴えをすることが少なくないとのことでした。免疫抑制剤(プレドニンとプログラフ)にもこのような精神症状の副作用があるとのことでした。また、移植時の無菌室管理のストレスの反動の可能性もあるとのことでした。精神的なことなのでとても心配でした。

●2001年新年会

こども医療センターで同じ時期に白血病と闘った、ふうちゃんとしーちゃんのご家族と新年会をしました。病院の近くのお店に集まって「みんな退院できてよかったね」とお祝いをしました。ふうちゃんもしーちゃんもとても元気になっていて嬉しかった。友紀野は茶碗蒸しくらいしか食べませんでしたが、それもいずれよくなると信じて、みんなで「また春暖かくなったころに集まりましょう」と約束しました。

●通院・点滴

友紀野はますます食欲がなくなり、ほとんど食べられない状態になりました。
1/11(木)
外来時の血液検査で電解質が不足しているので「塩分を採るようにしてください」と翌日先生から電話がありました。この日になると友紀野はまったく食べなくなっていました。何とか塩分を採らせようと、砂糖醤油を作ってなめさせていました。
1/15(月)
病院へ連れて行き点滴することになりました。カリウムが不足しているので心臓に影響が出る可能性があるので内服薬をもらいました。電解質が安定するまで外来で毎日点滴を受けることなりました。
1/16(火)
友紀野は水分すら採らない状態で、朝、胃液を吐きました。病院へ行くとやはり消化器系の風邪だろうとのこと。この日も点滴をしました。プログラフの血中濃度は充分あるとのことでGVHDではないだろうとのことでした。(実は消化管GVHDの確定診断は腸生検をやらなければならないのですが、小児の場合は負担が大きいので状況証拠で判断することが多いそうです)
1/17(水)
今日も点滴。昨日の朝以来便は出ていません。吐き気は少し落ち着いた様子でしたが、やはり食事はとれず座っているのが辛そう。好中球は充分あるとのことでしたが、血小板は2.0万と減ってきていました。

●再入院・再発

1/18(木)
継続して点滴が必要な状態になり、単球が40%、赤芽球も増えているそうで再入院することになりました。血小板は1.9万。ベニロン(ガンマグロブリン)を入れました。末梢血のDNA検査にも出すといわれました。
1/19(金)
点滴はソリタT2、ガンマの点滴。面会に行くとイスに座って食事中でした。といっても口に入れるがやはり飲み込めない様子。今日はマルクもあり、薬のせいかとても眠そうでしたが、昨日よりは少し気力が出てきたようでした。友紀野は「がんばった」とマルクのことを教えてくれました。しばらく食べようと頑張っていましたが、3時過ぎに「ねんねー」。
DNA検査の結果は、ドナーさんは男性なのでXY染色体が100%になっていなければならないのですが、XY染色体の血球は38%に低下していました。またJMMLの特徴である単球が40%に増加し、幼若な赤血球も増加していました。骨髄中には、移植前に観られたCD34とCD7のマーカーがまた出てきていました。つまり再発です。
主治医のT先生は「再移植」の方向で検討進めるとの見解でした。また、あの辛い移植治療をする思うと、とても残酷でショックでした。検査結果を聞いた後どうやって病院から帰ってきたのかよく覚えていないくらいショックでした。帰ってきてお母さんに伝えて二人で泣きました。眠れない夜でした。
移植後、2ヶ月、3ヶ月と骨髄のキメリズム解析では、100%ドナー側との結果で完全キメラになっていたのに、5ヶ月目弱の1/18の末梢血のFISH解析では、約40%がレシピエントで60%がドナーでした。先生のお話では、末梢血でこの割合だと骨髄だともっと拒絶がすすんでいるだろうとのこと。確実に再発しています。非常に残念でした。
年明けから食欲が落ちてきてGVHDの下痢がひどくなっていましたが、実は、それが10日くらい前から下痢の状態がGVHD的ではなくなってきていました。GVHDがおさまったように見えたのは、ドナー側の力が弱くなっていったためなのでしょう。完全キメラから突然の拒絶。。。なぜこんなことが起きるのか、元病のしつこさを思い知りました。細胞周期の中で休眠している状態だとキメリズム解析に引っかからないらしいのですが、何らかの刺激でそれが起きだして増殖を始めてしまったのでしょう。移植前の前処置ですべてを破壊することができなかったということになります。

●再発治療

1/22(月)
先週金曜日のマルクの結果では骨髄中のすでに98%が元の悪い骨髄になってきてしまっているとのことでした。下痢でずっとお腹が痛がっていました。血小板を輸血しました。またAB型とA型が混ざった状態になるため溶血がおきHbが下がったため赤血球も輸血しました。
対策として先生のお話では、まず、免疫抑制剤(プログラフとプレドニン)の急速減量をして、GVL効果が起き易くする対処をとるとのことでした。つまり、拒絶ということはレシピエント側の細胞が強くなっているわけなのでドナー側の細胞が強くなるようにするということらしいです。そして、バンクの移植なので、ドナーリンパ球輸注療法(DLI)が1回だけ、ドナーが同意すれば可能とのことで、これを実施する方向で依頼するとのことでした。DLIを行えば、ドナー側の免疫力が高まりGVLが強く出る、つまり元の悪い細胞を攻撃する力が強くなるということだそうです。
しかし、それでも一旦拒絶方向に走り出すと、もう100%ドナー側に戻すのは難しいとの事で、その次は再移植ということになるだろうと言われました。本当に他の方法はないのか。ショックです。またあの辛い移植治療を受けさせるのかと思うとあまりに残酷です。何故、こんな辛いことになってしまったのか。しかもまたドナーになっていただける方を探さなければなりません。
ルークトークでお世話になっているS先生によれば、母子間移植という方法も可能性として残されているとのことであったので、そちらの検査もしていただくことにしました。
1/24(水)
マリービスケットが食べられました。少しずつ噛んではお茶で流し込んでいる感じでした。お腹の痛み止めをしてもらってから、おしゃべりしてくれるようになりました。夏のことを気にしているようで、友紀は、「なっちゃん、ほいくえん」、「なっちゃん、ないてるから」、「なつ、おかぜひいちゃった」。それを聞いたお母さんが友紀に「夏のこと心配してくれてるの?」というと、神妙な顔で「しんぱい」と言ったそうです。友紀は夏のお姉ちゃんなんだ。泣かせます。
1/25(木)
電解質のバランス良。白血球4000、Hb14でまずまずです。帰り際お母さんの採血をしました。HLAはすでに判っていましたが、DNAタイプを詳しく調べるためです。母子間移植のドナーになれることを期待しました。
1/26(金)
内臓機能に問題なし。Hb変わらず。白血球も4000くらいで落ち着いている。血小板もそれほど少なくはないが消化管から出血するとまずいので血小板を輸血する。今日もマリービスケットを持っている。少し元気、おしゃべりが増えた。先生は、「痛み止めはどんどん使いましょう」といってくださった。
1/31(水)
痛み止めを使わないとお腹を押さえてベッドでうずくまったままになってしまう。話しかけても答えてくれない。相当お腹が痛いのだろう。看護婦さんにお願いして痛み止めを点滴に入れてもらう。15分くらいすると楽になったのか、おしゃべりしてくれるようになる。手にはハイハインかマリービスケットを握り締めている。そうしないと落ち着かないようだ。
昨日辺りから気になっていたのは、呼吸が苦しそうだということ。今日はお母さんが面会から帰ろうとすると泣いてしまったらしい。具合が悪く心細かったのだろう。私が病室に行ったときに看護婦のHさんが友紀のそばについていてくれた。Hさんはこの日本当は昼までの勤務だったと後で知りました。私が来るまで友紀についていてくれたんです。お母さんはこのことを聞いて、「あ、ずーっといて下さったんだ」と感謝したと言っています。Hさんはお腹に赤ちゃんがいらして大変なのに友紀のためにいてくださいました。

●ICU

2/1(木)
サチュレーションが65程度まで下がっているので、酸素マスクをすることになりました。しかし友紀がおとなしくつけさせないので、ベッドに酸素テントをかけることになったのですが、2東の個室では部屋が狭くうまくレイアウトができません。結局オープンスペースで処置のしやすい病棟ということで、5東のICU(集中治療室)に入ることになった。ICUは初めてのところなので友紀は心細かったようだが、酸素テントの中で眠ってくれました。
2/2(金)
先生から電話があり、呼吸状態が悪化しているので挿管して呼吸器を繋ぎ呼吸器管理にする連絡があった。処置は午前中で終わるとのことだった。午後、面会にいくとICUにいた他の先生が「お父さん気を確かに持ってくださいよ」といきなり言われました。おそるおそる友紀のベッドにいくと、処置後で血に染まったガーゼで押えられた管が鼻から挿管されていました。筋弛緩剤とモルヒネで眠らされていました。「呼吸器から酸素が肺まで送り届けられるので本人にとっては楽になったはずですよ」と、そばにいた別の先生が説明してくださいました。モニタをみるとサチュレーションは99に上がっていました。
2/3(土)
お母さんが面会に行くと、「動き出すので薬を増やしています」と看護婦さんから説明。それが聞こえたのか、友紀は目を開けると「おちゃー、おちゃー、おちゃのみたいー」と一生懸命言っていたそうです。看護婦さんに確かめたが、「筋弛緩剤を使っているのでうまく飲み込めないと危険なので無理です」とのことで友紀には「今は駄目なんだって、またあとで飲もうね」と説得したら、ゆっくり、「うん」、とうなずいてくれたそうです。それから「おなかいたいー」、次に「おせんべいー」と言ったので、手にハイハイン(あかちゃんせんべい)を握らせると薬で眠ったようです。(この後もハイハインはずっと握っていました。その時の握っていた一袋が今でもお仏壇にお供えしてあります)
2/5(月)
主治医のT先生から携帯に電話が入った。午前中、サチュレーションと血圧が急激に下がり危険な状態になったと連絡。仕事を途中で休み急いで病院に向かった。向かう途中、名古屋のおばあちゃんにも一報をいれる。丁度お昼頃ICUへ到着し友紀野に声をかけた。すると数値を見ていた先生が「声を聞いたら容体が安定しましたね。友紀ちゃんは本当にお父さんのことが好きなんですね」とおっしゃった。
マルクのDNA検査結果が出ていた。移植前にはなかったモノソミー7(7番染色体が1本しかない状態)などの悪性の細胞が出てきていて、まさに骨髄異型性症候群と呼ぶにふさわしい状態になっていることが確認されたと説明があった。
また、EBウィルスの数値が上がってきており、呼吸器機能が衰えてきているのは、EBウィルス感染によるものかもしれないとの推測も教えていただきました。
日増しに肺の状態は悪くなるようでした。この時点で肺の生検をするなど徹底的なICU的な治療を続けるかどうか、2東病棟にもどるかどうかについて私たちに先生から相談がありました。先生は「DNA検査の結果がわかる前でしたら肺生検をおすすめしたのですが、この結果が判ってしまったので、リスクの伴う検査はあまりおすすめしたくないのです」というようなことをおっしゃいました。また、「呼吸器を外して、お父さんお母さんとお話できるようにしましょうか?」とも聞かれました。「苦しくないようにしてあげて下さい」とお母さんは答えたと記憶しているようです。私も同じことを聞かれてそう答えたように思います。2東の婦長さんが「2東でもICUと同じように看させていただきますので」とおっしゃってくださり、先生も「家族と過ごす時間を増やしたほうがいいでしょう」ということで、入場制限の厳しいICUではなく一般病棟の2東へ戻ることになりました。あまり状態が悪くなってからでは転棟もできなくなるので、今日のうちに移動することになりました。

●2東病棟

2東病棟に戻ることができてほっとしました。まわりは友紀野のことをよく分かっていてくれるスタッフの方々です。友紀野は薬で眠らされてはいましたが、耳は聞こえると先生がおっしゃっていたので、看護婦さんたちの声を聞いて喜んでいたと思います。先生が「ゆきちゃん」と頭をなぜてくれると、友紀は「いやいや」というような感じに身をよじるような反応をしました。先生が「あぁ、起きてるときと同じだ。聞こえていますね」とおっしゃいました。
この日の夕方、名古屋からおばあちゃんと私の妹が駆けつけてくれた。病室まで入ってもらい友紀に会ってもらった。しゃべることはできないけれど、聞こえるはずだからと、話しかけてもらった。
2/7(水)
高知のおばあちゃんも駆けつけてくれた。名古屋の母と妹は仕事もあるので一先ず帰ることになった。先生からは「自宅から何分くらいで来られますか」とか、「どなたか会わせたい人はいますか」と聞かれた。お兄ちゃんと夏ちゃんには友紀の闘っている姿を見せたかった。特別にお願いして病棟の中に二人を入れてもらえることになった。
2/8(木)
婦長さんが簡易ベッドを手配してくださり、お母さんと私は病室に泊り込むことになった。お母さんはお家の家事やお兄ちゃんと夏のことをおばあちゃんにお願いして、私は会社をしばらく休みをとりました。

●旅立ち

2/9(金)〜2/12(月)
この時点ではEBウイルスによるものかGVHDによるものかははっきりしていませんでしたが、免疫抑制剤を切ったことによって起きていることは想像できました。先生にその事をたずねると先生はとても辛そうに「そうなんです」とおっしゃいました。友紀野のそばに座り込んで先生と話し合いました。「EBウイルスは普通もとのからだの中にあったものが出てくるので免疫抑制を下げるとウイルスを攻撃してくれるのですが、友紀ちゃんの場合は逆に増えてしまった。ということはドナー由来のEBウイルスだということになります」とおっしゃり先生も初めてのことだとのことでした。「ドナー側の細胞の勢いを増すためには免疫抑制剤を切らねばならなかったわけですし」と先生は正直に困惑していることを認めておられました。
肺の状態を改善するためにステロイドパルスをやることになりました。再発の治療とは逆のことになるので先生は非常に悩んでおられましたが、まずは目の前の状態を改善し何としても再移植に結び付けなければならないということでステロイドを投与することになりました。
しかし、サチュレーションは徐々に徐々に下がり続け、気管支の吸引でも痰があまり引けなくなっていました。胸の上下動も少なくなり肺の細胞が繊維化して硬くなってきているとのことでした。90以上あったサチュレーションが88,86,84と下がり続けてました。呼吸器の圧力をギリギリまであげて回数も上げていきました。それでもサチュレーションはあがりませんでした。圧力を上げているせいでお腹が膨らみ手足がパンパンに硬くなりました。
2/13(火)
朝から尿が出なくなりました。利尿剤を使っても出ません。腎不全の疑いがあるとのことで先生たちも緊迫した様子でした。心拍が早くなっています。「どこかが痛いのでしょう」と先生がおっしゃっていました。15時ころ導尿カテーテルを抜くと、ぴゅーっと出ました。カテーテルが詰まっていたんです。新しいものに取り替えてもらうと溜まっていたおしっこがたくさん出ました。かわいそうに膀胱に尿が溜まって痛かったんだと思います。もっとはやく気づいてやればよかった。
サチュレーションが夕方から急激に下がり始め、70,60台になっていきました。心臓の拍動が小さくなっていき、サチュレーションのモニターももう値が表示できないとアラームを出しています。先生が聴診器を友紀野の胸にあてて聴いていました。私とお母さんは「ゆきちゃん、ゆきちゃん」と名前を呼ぶのが精一杯でした。今から思えば耳が聞こえる間に「よくがんばったね、お疲れ様、ゆっくりお休み」って言ってあげられなかったのが悔しい。18時48分、先生が聴診器を外し、深々と一礼をされました。こうして、友紀野は3歳2ヶ月の人生を駆け抜けて天国へ旅立っていきました。
その後、お世話になった担当の看護婦さんがお風呂の準備をしてくださいました。「ゆきちゃん、再入院してからお風呂はいれなかったもんね、ゆっくりはいろう」と。先生にIVHと呼吸器の管を抜管してもらい、友紀野は本当に久しぶりに肩までお湯につかって洗ってもらうことができました。その後、看護婦さんたちがうっすらとかわいいお化粧をしてくださいました。

●病理解剖

しばらく病室でまだ温かい友紀野の体をなぜていたのですが、主治医の先生がいらして、「立場上申し上げなければならないのですが」ととても言いにくそうにおっしゃいます。別室でお母さんと二人で伺うと、「病理解剖のことです」とお話されました。先生自身は「メスを入れるなんて私は全く趣味じゃない。むしろ抵抗があるのですが」ととってもやりたくなさそうなご様子でしたが、「直接や間接の亡くなった原因を調べることで納得される部分、私たちが批判を受ける部分、今後の医療の発展に役立てることはできるかもしれない」とおっしゃいました。
それから先生は「呼吸器を目一杯強くしていたので、肺から空気がもれて溜まっているでしょうから、このままだと内臓物が押し出されてしまい汚れてしまうと思います。病理をやるときれいにしてもらえるので、そういう意味ではいいかもしれないですね。」ということも説明してくださいました。「解剖の後、友紀の体はどうなるんですか?」とお母さんが聞きました。「病理検査に必要な部分を少しずつ切除し、その後はきれいに元通りにして移動しても大丈夫なようにしてくれます。」と先生は説明してくださいました。迷いましたが、でももし友紀野と同じ病気の子供のために役立つことができるのならきっと友紀野も喜んでくれるに違いないと思い、解剖を受けることにしました。
病理解剖は翌朝一番で行われることになったため、今夜は友紀ちゃんはもう一晩病院でお泊りすることになりました。「霊安室は淋しいところなので」、と看護婦さんが友紀野のお気に入りのピングーのお人形を一緒に連れて行ってくれました。
翌朝、解剖終了の頃に病院へ私とお母さんと名古屋のおばあちゃんとで行きました。病院で簡単なお別れ会を開いてくれるということでした。きれいに服を着せてもらっていてお顔は顔色もよくてまるで眠っているかのようでした。たくさんの病棟の看護婦さん、外来の看護婦さん、ソーシャルワーカの方、放射線の技師の方、私たちが直接顔を知らない方など、たくさんの方がお別れに来てくださいました。最後に主治医の先生がお別れをしてくださいました。
友紀野はお母さんが抱っこして、私の運転する車に乗りました。「ゆきー、やっとおうちに帰れるねー。そうちゃんとなっちゃんがまってるよ」とゆっくり裏口から出発しました。

●その後の情報

後日聞いた病理解剖の結果では、EBウィルス感染によるものではなく、GVHDによる間質性肺炎が直接の死因であることが分かりました。つまり、再発治療のために免疫抑制剤を減量する方法をとったことでGVHDが酷くなり肺がやられたということのようです。「再発したということを除けば、肺以外の臓器は全く問題がありませんでした。そういう意味でも悔やまれます」と先生はおっしゃっていました。
また再発の原因としては移植時に急性転化しており、あの時点で白血球が20万を超える勢いであったことから、前処置による骨髄破壊でも生き残った細胞がいたということのようです。骨髄移植は寛解時の移植こそが成功率を高めると言われていて、そのことを改めて理解しました。あと一ヶ月早くできていたら急性転化する前に移植ができていたかもしれません。骨髄バンクの手続きの短縮化と登録者を増やすことが望まれます。
移植をもっと早くにしていればということで、お母さんは最初の病院(西横浜国際病院)での「感染症で白血球が増えているのでしょう」という診断を鵜呑みにしたことを後悔しています。なぜもっと追求しなかったのかと。止血剤を処方されたときに疑問に思ったのに、あの時もっと言ってもっとちゃんと調べてもらえば友紀は助かったかもしれない。そんな思いが後悔となって残っていると言っています。

友紀野のタンポポ畑
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